高橋道八宅跡

道八は、京都の陶芸・髙橋家代々の襲名であります。
 初代道八は、高橋周平光重といって、寛延二年(1749)三月亀山藩士、高橋八郎太夫の次男として、南野村(現南野町)に生まれました。
 宝暦年間(1751~63)のころ、京都に出て、三条栗田口に住居を定め、当時の大陶匠宝山文蔵について、修業し宝暦十三年(1763)陶窯を築いて道八焼の初代となり松風亭空中と名乗っていました。
 武家の出身である道八は、学問・人品もあり常に池大雅・松村呉春・上田秋成・売茶翁(江戸時代の文人画家)などの巨匠と往来しました。絵画や竹木の彫刻も巧みで、狩野派の画事に精通し、特に、自陶や自画の作品には目を見張るものがあったようです。文化元年(1804)四月自画像に辞世の句「借用申処地水風火返辨今月今日、此外に借りあらば御免あれ分散したら本の空中」と書いて、五十六歳で没しました。京都下京区の宗仙寺に葬られています。
 子孫も代々「道八」を受け継ぎました。ことに、二代目道八は、初代の次男で栗田口から、五条坂に陶窯を移しました。陶芸については、奥田潁川に学びました。別号は、華中亭・法螺山人と名乗りましたが、醍醐字三宝院門跡から「阿弥」の号を贈られ、文化九年(1812)に仁和寺宮より「法橋」に叙せられ、「仁」の字を許されて「法橋仁阿弥」と称しました。また、紀州藩徳川家のお庭焼・偕楽園焼や、四国高松城主松平家に招かれ「讃岐窯」などに手腕を発揮しました。二代道八は、同年に完全な染付の製法「青華の焼造法」を完成し、独特の華麗な作風で、茶碗や菓子器の作品が多く、特に寿老人などの置き物が得意でありました。
 天保十三年(1842)に、伏見桃山に退隠しここに別窯を築いて桃山焼を造りました。この器は、各種の彩料をもちいて、釉上・釉下に浅深のぼかしや、抜画を出したもので、当時、他に比類がなかったので、珍重されました。
 三代道八は、二代道八とはかり、白磁青華磁器を創製し名声は遠近に伝わりました。明治二年鍋島藩に招かれて、肥前有田(現佐賀県)に赴き、京窯を築いて彩画を教えました。陶工道八は初代以来、専心陶業の工夫を怠らず、現代に続いています。